ケントロサウルス
- 2014/12/30
- 23:59

ケントロサウルス・アエティオピクス(Kentrosaurus aethiopicus)は1907年にタンザニア(当時はドイツ領東アフリカ)のテンダグル・ヒル(このテンダグルという地名は、地元のWamwera族の言葉で「急な坂」という意味だそうです。テンダグル累層はジュラ紀後期のキンメリッジ期~チトン期前半の地層と考えられ、およそ1億5200万年前とされます。)で発見された剣竜で、ベルリンの古生物学者ヴェルナー・ヤネンシュ博士とエドウィン・ヘニング博士により1909~1912年にかけて発掘が行われました。この発掘には特に訓練を受けていない地元民が数百人参加したそうです。この時に発掘された骨格は50体分を超えていたそうですが、完全な頭骨及び完全に関節した骨格は1体も発見されず、見つかった頭部を繋ぎ合わせても1個分にはなりませんでした。また、体についても一部分が関節したバラバラの状態であったそうです。
1915年にヘニング博士はこの剣竜をケントロサウルス・アエティオピクスと名付けました。属名はギリシャ語で「棘のトカゲ」という意味、種小名はエチオピアに因んでいます。全長は約4.5m、体重は約1~1.5tと推定されています。翌1916年にヘニング博士はケントロサウルスの名を〝ケントルロサウルス″に改名します。これは、ローレンス・モリス・ランベ博士が1904年にカナダで発見された角竜にCentrosaurus(セントロサウルスとされる事が多いですが、ラテン語ではCeをセと読むことはないので、ケントロサウルスとするのが正しい様です。しかし、実際にはこの名前も他の動物に使用されているらしく改名するとかしないとか)と命名しており、読み方が被った為です。フランツ・フォン・ノプシャ博士もこの事に気付き、ドリロフォサウルスという名前を提案しましたが、ヘニング博士の改名よりも発表が遅かった為、無効な名前となっています。その後、1961年に動物命名規約が改定され、読みが同じでも綴りが異なればOKとされたので、ケントロサウルスの名が復活しました。
ヤネンシュ博士がケントロサウルスの復元に取り組みましたが、頭部で見つかっているのは、頭部の後部と下顎の一部のみだった為、ステゴサウルス・ステノプスに似せて石膏で復元されました。体骨格は何とか繋ぎあわせて2体分の組み立て骨格が作成されました。1体は亜成体のもので、チュービンゲン地質・古生物博物館に、もう1体はフンボルト博物館に収蔵されています。ケントロサウルスの標本のほとんどは第2次世界大戦中のベルリン空襲で破壊されてしまったとされていましたが、後にフンボルト博物館の地下室から発見されたそうです。
分類としては発見当初からステゴサウルス科に分類されており、現在でも同様です。ポルトガルのロウリンニャ博物館のオクタビオ・マテウス博士による系統解析ではステゴサウルス科の基盤的(原始的な)メンバーとされています。ケントロサウルスは大腿骨及び骨盤に2タイプあり、性的二型であると推測されています。大腿骨には骨太でゴツイものとほっそりしたものがあり、マンチェスター大学のホーリー・バーデン博士とロンドン自然史博物館のスザンナ・メイドメント博士によると、ゴツイ方とほっそりした方の個体の数の比率は2:1であった事から、ゴツイ方がメスと考えられると言います。また、剣竜の包括的な研究を行ったピーター・ガルトン博士によると、ケントロサウルスの骨盤の仙骨(骨盤内に組み込まれた脊椎)の数が4個のものと5個のものがあり、5個のものがメスと考えられるとしています。
生態としては、ケントロサウルスは背骨や尾の骨の構造から、尾を使って立ち上がる事は出来なかったと考えられており、他の剣竜類と同じく低い位置の植物を食べ、尻尾の鋭いトゲで肉食恐竜に対抗したと考えられています。主な天敵はアロサウルスやケラトサウルスだったと思われます。
参考文献:「恐竜学最前線4」学研、「ポケット図鑑 恐竜」工藤晃司著 成美堂出版、
「THE PRINCETON FIELD GUIDE TO DINOSAURS」Gregory S. Paul Princeton University Press
参考サイト:Wikipedia「Kentrosaurus」英語版
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